お節句ですね。上五島では旧暦でお祝いするので、お雛様を出すのは3月3日から4月3日まで。父(虎屋を創業した犬塚虎夫)は私が幼い頃、桃の節句が近づくと「重箱持って、山へ遊びにいこうや」とよく言いました。最近ふとそのことを思い出して、叔父(父の2歳下の弟)に尋ねたら、とても面白い昔話を聞かせてくれたので皆さんにお伝えしなくちゃと。ここからは叔父・犬塚忠生が語ります。
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僕が小学生やった、昭和30〜40年代の頃の話ですよ。4月2日は「海開き」、3日は「山開き」。海水浴や登山が解禁される日ではなくて、海や山で子どもたちが遊ぶ日のことをこう呼びました。僕は山開きしか行ったことがないけども。番岳って山の8合目、子どもの足で30分ほど歩く、原っぱでね。集落にある6班の子どもたちが早い者勝ちで場所取りして、朝から日が暮れるまで遊びました。
一番の楽しみは、「重開き(じゅうびらき)」。木の弁当箱みたいなお重に、ご馳走を詰めてもらったのをみんなで食べるんです。貧しい時代だからご馳走といっても、ふかしたサツマイモか麦ご飯を入れてくる子が半々くらい。家が漁師や海女さんの子は、アワビやサザエの煮付けを入れてきましたね。僕は大工の子だから海のものはなかったけど、母ちゃんが張り切って大きな俵型のおいなりさんをこしらえてくれました。それから、魚肉ソーセージ。あれが大好物やったねえ。こんな贅沢できるのは、正月と節句、運動会くらいで、子どもたちは大はしゃぎです。
中学生や高校生も一緒になって遊びましたよ。そこらに生えてる木の枝を落として葉っぱにまたがって草スキーしたり、鬼ごっこしたり。疲れたら昼寝しましたね。僕は肌が弱くて、決まって体のあちこちが痒くなったもんです。
「節句じゃけん、遊んでよかよ」と大人が言ってくれる、特別な日でした。その解放感ときたら、なかったなあ。当時、子どもたちは畑や山羊の世話、風呂の薪割りといった家の仕事を手伝うのがあたりまえでした。僕も、父の大工仕事で人が足りない時は兄と木切れを運んだもんです。日当を300円ほどもらって、プラモデルの飛行機を買うのが楽しみでした。
海開きも山開きも、春の息吹を感じて自然に感謝する人々の気持ちからはじまったんでしょう。子どもにとっては「山開きすっとぞー!!」という喜びがはちきれる日。大人の花見とはちがう楽しみでしたね。転任する先生の見送りと山開きは、春休みの二大行事でした。
いつからはじまったのかは知りません。「私も好きやけん、ついていこ」というおばちゃんも一緒に山を登ったので、昔からあった習わしでしょう。今はもうこの原っぱも、遊ぶ子どもたちの姿もありませんがね。
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叔父の話を聞きながら思い巡らせましたが、私たち7人兄妹が山へお重を持って遊びにいったのかは、記憶があいまいです。祖父が買ってくれた7段飾りのお雛様を母とああでもないこうでもないと飾って、ちらし寿司や桃カステラを食べた思い出はあります。この春に「海開き 山開き」の話を聞いたのは、伝えてほしいという父のメッセージなのかもしれません。「海開きはこんなだった」「うちではこんな節句祝いをするよ」とか、ぜひ皆さんの話も聞かせてください。(こ)
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